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神々のつぶやき No.38 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2020/10/01

        我が輩はねずみであります。
        ですが、以前は人間もしておりました!
        我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
 
        今回は素晴らしき日本の八百万の神々の話ではなく、異国の神々の話です。
        イエスの知られざる生涯だとさ!(その二 続き)

        イエスは偉大な革命家であり、精神的指導者だった洗礼者ヨハネの弟子だった。
        洗礼者ヨハネはイエスを何年もの間待ち続けたと言う。

        そしてヨルダン川でイエスに洗礼を与えた日、イエスに言った。
        「さあ、あなたは私の仕事を継ぎなさい。そして私は消え去ろう。私の役割はもう終わった。」
        そしてその日以来ヨハネが再び現れることはなかった。

        本当のイエスの最後とは次のような事とも言われている。
        イエスはエルサレムを抜け出し、彼が後に留まったカシミールへ行った。
        だがそこでの彼の人生はイエスの人生ではなくキリストの生だった。

        彼は完全に沈黙して生きていた。それが彼の記録がない理由でもあった。
        どんなメッセージも与えようともしなかった。説教をしようともしなかった。
        彼は革命家としてではなく、マスターとしてカシミールに留まり、彼自身の沈黙の中で生きた。

        何人かの者たちは彼と共にいるためにカシミールへと旅をした。
        カシミールで彼が生きていることに気づいた人々は何ひとつ
        そうした情報がなかったにも関わらずそれを知り、彼の元へと旅をした。
        そして実際、少数ではなかった。おそらく世界と比較すればほんの僅かだが、かなりの数だった。

        キリスト教は不完全と言っている人もいる。なぜなら早期の革命的なイエスしか知らないからだ。
        それゆえにキリスト教は共産思想を誕生させることができた。
        だがイエス自身は完全に光明を得た人――満月の人として死んだと言われている
        本当かどうかのこのような話が今もつながっていると言う。――

                アア〜アーメン
                スゴイ話しでしたチューチューチュー
                又神社でも行くべか!
                少し頭を冷やすべ!!

                                               勾玉鼠小僧拝

                                                  

神々のつぶやき No.37 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2020/09/01

        我が輩はねずみであります。
        ですが、以前は人間もしておりました!
        我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
 
        今回は素晴らしき日本の八百万の神々の話ではなく、異国の神々の話です。
        イエスの知られざる生涯だとさ!(その二)

        その女は言った。「子供が生き返るようにと願って今戻って来たのではありません。
        私は仏門に入るために戻って来たのです。子供は死んでしまいました。
        私もいつの日か逝くでしょう。あらゆる人が逝くことでしょう。
        決して終ることのない生へ。私を導いて下さい。」

        これこそが偉大なる奇跡だ!!だが私たちはそう考えない。
        もし子供が生き返っていたら、それは奇跡だったろう。

        その女性は変わった。
        子供の死は生への欲望を満たすために使われたのではく、放棄のために使われた。

        ブッダの弟子が空腹でも、ブッダが奇跡を行い、パンを与えたりしないだろう。
        その反対に彼は言うだろう。「空腹の目撃者になりなさい。空腹の超越のために
        空腹を立ち退かせることができるように目撃者になりなさい。空腹はあなたではない。」と。

        イエスはパンを与えなくてはならなかった。
        そしてブッダは彼の追随者たちに断食をするように仕向けなくてはならなかった。
        誰かにパンを与えることは実は奇跡ではない。
        だが誰かに断食の準備をさせることは奇跡だ。しかし奇跡とは一体何だろうか!

        私が見るにイエスがもし奇跡と言う作業に固執しなかったら
        人類へもっとましな貢献をしていただろうと言っている人たちもいる。
        奇跡と言う概念の想いを持って彼は愚か者たちを惹きつけた。
        大衆はいわゆる奇跡と呼ばれるもののためにイエスに興味を持った。
        彼は奇跡を通して彼らを助けようとしたが、それは不可能だった。
        むしろその逆で、彼自身がトラブルに巻き込まれたのだった。

        イエス様の事をこのように書いていいのだろうか?アーメン。少しお許し下さい!
        続けます。

        みんながサイババのところへ行けば彼があることをするのを見るだろう。
        だがその時、ただ愚か者だけがそれに惹きつけられる。
        もし私の手の中に指輪が出現したとして、それが何だというのだろう?
        それが精神的現象とどう関わりがあるというのだろうか?
        たとえこの家が丸ごと消え去って次に再び現れたとして・・・それがなんだと言うのだろう。
        だから私は奇跡という概念には関心が無い!

        イエスが永遠について終わりのない罰について話す時、革命の言語で語っている。
        革命家の目は常に理想と反対の結果に向いている。
        しかしブッダやマハヴィーラからは想像できない言葉だ。だがイエスは金持ちが
        神の王国に入ることは針の穴を通ることより難しいと言った。金持ちは通ることができない!
        これは共産主義の種、基本的種子だ。

        イエスは革命家であったと言う。彼は精神性のみに関わっていたのではなく、
        経済、政治・・あらゆることにも関心を持っていた。
        もし彼がただの精神霊的な人間だったとしたら、磔にされなかっただろう。
        だが彼は社会組織全体にとっても危険な者になったので磔にされたのだ!とも言っている。

        ―続くー

                アア〜アーメン
                スゴイ話しでしたチューチューチュー

                                               勾玉鼠小僧拝

                                             

神々のつぶやき No.36 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2020/08/01

        我が輩はねずみであります。
        ですが、以前は人間もしておりました!
        我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
 
        今回は素晴らしき日本の八百万の神々の話ではなく、異国の神々の話です。
        イエスの知られざる生涯だとさ!(その一)

        一、 イエスは完全に光明を得ていたか?
        二、 イエスはカシミールで別の名前で生きたのか?
        三、 聖書の中には多くの奇跡が記録されている。
          (例えばその体がすでに死臭を放っていたラザロをイエスが死の淵から蘇らせたことは?)
        四、 亡くなった人間を蘇らせることは可能なのか?
        五、 聖書に報告されている他の奇跡についてはどうか?
          (例えばイエスがパン2切れと5匹の魚で何千という人々の空腹を満たした
           という言葉だが、それについて説明はいかに?)

        いろいろあるチュー!

        さて、ここにひとつの物語が記録されている。
        ブッダはひとりの子供が死んだある村にいた。
        母親は子供のことが忘れられなくて泣き叫んでいる。
        そして自殺をして現実から逃れようとしていた。

        そこである者が言った。
        「ブッダのところへ行きなさい。彼なら何でも可能です。彼は光明を得た人です。行ってみなさい!
        彼は慈悲深い方です。彼があなたに慈悲始めれば子供は生き返るかも知れません。」
        そこで彼女は死んだ子供を脇に抱えてブッダの元へとやって来た。そして子供をブッダの足下に横たえた。
        ユダヤ人の国で、これと同じような状況の中でイエスに何が起こるかを想像してみなさい。
        もし子供が生き返らなかったら、イエスはそれで完全に終わりだったろう。
        なぜならそうしたらイエスは自らが主張するような人ではなかったことを証明してしまうからだ。
          
        だが子供がブッダの元へ連れて来られた時、彼は何と言ったと思う?
        彼は母親に言った。
        「あなたの子供を生き返らせてあげよう。だがその前にあなたはあらゆることをしなくてはならない。
        村中のあらゆる家へ行き、一度も死人の出たことのない家を探し当てるがいい。もし一度も
        死人の出たことのない家がこの村にあったら、その時には夕方私はあなたの子供を生き返らせてあげよう。」

        母親は出て行き、あらゆる人々に尋ねた。すべての家ですべての家族で誰かが亡くなっていた。
        夕方、彼女が戻ってくる頃までには、死は現実であるということ、
        死は生の一部なのだということに彼女は気づいたのだった。

        ブッダは彼女に尋ねた。
        「さてどうかな?誰かの死によって苦しまなかった人、家族、家があっただろうか?」
        その女は言った! ―続くー

                    ブッダとイエスとは何者かなぁ〜
                    チューチューチュー

                                                勾玉鼠小僧拝

                                                 

神々のつぶやき No.35 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2020/07/01

      我が輩はねずみであります。
      ですが、以前は人間もしておりました!
      我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
 
      “修行と師匠と悟りの極意だとさ!” その2
      我が輩が鼠小僧寿し太郎時代に聞き及んだ話であります。では行くべか〜!

      しかし師は言った!
      「それでもおまえは3、4日そこにいた。何も見るものはなかったとしても、見ていたはずだ。お前は何をしていた?」

      そこで彼は言った。
      「見ていましたとも!・・・夜になると番人は調理器具や鍋を拭き、すべてを並べました。
      そして朝になるとまた拭いていました。」

      師は言った!
      「それだ!それが教えだ!そのために、おまえは送られたのだ!夜になると彼は鍋を拭き、朝になると再び綺麗な鍋を拭いた。
      その意味は何か?それは、たとえ夜に何事も起こらなかったとしても、鍋はまた汚れ、再び埃がつくからだ。
      おまえは純粋かもしれない・・・今のところ・・・おまえは無垢かもしれない。
      しかし、あらゆる瞬間に清めつづけないといけない。何もしなくても時が過ぎるだけで、おまえは純粋でなくなる。
      一瞬一瞬、時の経過・・・何もせず木の下でただ座っているだけで、おまえは汚れていく。
      そしてその汚れは悪いことや間違ったことをしているせいではなく、ただ時の経過によって生じるものだ。
      埃は積もる。だから拭きつづけることだ。そして、これが最後の仕上げになる。
      おまえは自分が純粋であることを鼻にかけるようになった。そして今のところ常に清める努力をすることに気づいていない。
      わしはそう感じたのだよ」

      一瞬ごとに人の心は変わり動き再び再生する。
      ただ得た修行、人生に終止符は無く、ただひたすら磨き続ける事が己の宝であり、最大の師でもあるのだよ!
      終わり

               ギャーギャー!我がチューは目が開いたチュー!
               ニャンニャンには捕らないヒントを得たチュー!
               いい話しだったなぁ~

                                                    勾玉鼠小僧拝
                                                  

神々のつぶやき No.34 いずれも先達から聞き及んだ話だが…

エントリー投稿日:2020/06/01

      我が輩はねずみであります。
      ですが、以前は人間もしておりました!
      我が輩ねずみと人間の間で見た聞いた話をするチュー。
 
      “修行と師匠と悟りの極意だとさ!” その1
      我が輩が鼠小僧寿し太郎時代に聞き及んだ話であります。では行くべか〜!
      
      寿し太郎君は修業時代、禅の師匠を探していた。
      彼は何年も師と共に暮らしていたが、ある時、師は言った。
      「寿し太郎はほぼ成就した。すべては申し分ない。」
      しかし師は「ほぼ」と言った。

      そこで寿し太郎君は言った。「どういう意味でしょうか?」
      師は言った「何日かお前を別の師のもとへやらねばならん。それが最後の仕上げになるだろう。」と。
      寿し太郎の胸は高鳴った。彼は言った。「すぐに行かせてください!」

      書状が彼に渡された。彼はいたく興奮し、自分の師よりも偉大な師のもとへ送られるのだと思った。
      しかしその人物のもとに到着すると、彼は何者でもなく・・宿屋の番人、宿屋の門番だった。
      彼はひどくがっかりして思った。「これは何かの冗談に違いない。この人が私の最後の師になるだって?
      彼が最後の仕上げをしてくれるだって?」しかし彼は来てしまった。
      「何日かここに留まるほうがいいだろう。少なくとも休息にはなる。それから戻ろう。長旅だったことだし。」

      そして番人に言った。「私の師がこの書状をよこしたのだが。」
      番人は言った。「あいにく私は字が読めないもので。書状はお取り置きください。それは必要ございません。」
      と言われてしまった。

      「あなたさまは、こちらにお泊まりいただけます。」
      寿し太郎は言った。「しかし、私はあなたから何かを学ぶために送られてきたのだ。」
      番人は言った。「私はただの番人です。師匠でも教師でもございません。何か勘違いがあるに違いない。
      あなたは間違った者のところにいらっしゃったのでしょう。私はただの番人です。教えることはできません。
      私は何も知らないのです。ですがせっかくおいでになったことですし、ただ私のことを見ておられるのもいいでしょう。
      助けになるかもしれません。お休みになってご覧ください。」

      しかし、見るようなものなど何もなかった。
      朝方、寿し太郎は宿屋の扉を開けた。すると客が訪れ、番人は客用の物―鍋、調理道具、ありとあらゆるものを拭いた。
      彼はかいがいしく働いた。そして夜になって誰もが去り、客が床につくと、彼は再び客用の物を拭いた。
      鍋、調理道具、ありとあらゆるものを。

      そして朝になると再び同じことを繰り返した。
      三日経つと、寿し太郎は退屈してしまった。そして言った。
      「見るものなど何もない。あなたはずっと調理道具を拭き、ありふれた仕事をつづけている。私は出て行きます。」
      番人は笑ったが、何も言わなかった。

      寿し太郎は戻った。彼は憤慨して師に言った。
      「なぜです?なぜ私はこんな長旅に出されたのか?うんざりしました。その人物は宿屋の番人だったのです。
      彼は私に何も教えてくれず、ただ“ご覧なさい”といいました。でも見るようなものなど何もありませんでした。」
      しかし、師は言った!

               サァー どうなるかチュー
               その2 次回に続くチュー

                                                勾玉鼠小僧拝

                                             

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